2011年 11月 12日
ドゥブロヴニク⑩ スポンザ宮殿、内戦を伝える!
そこは、1991~95年までの内戦の展示でした。最初に目に入ったのは、壁に掛けられた顔写真。若者から働き盛りの男性までズラリ。その下のプレートには名前とプロフィールが書かれ、亡くなった日が内戦の年と同じでした。そう、彼らは犠牲者でした。
モニターに映し出される写真の数々。火の手が上がる(←)プラツァ通り、黒い煙がもくもくと上がる港の船(→)、
(←)炎上するビルの屋上、棺を運ぶ行列(→)も…。決して、忘れてはならない悲しい町の記憶でした。
◆ドゥブロヴニク旧市街(1979、94年登録)◆
<美智代の豆知識> ドゥブロヴニクに起こった2度の危機
①1667年の大地震…町のほとんどが倒壊し、5000人が犠牲。それに乗じて、ヴェネツィア共和国が攻めてくるのを警戒して、オスマントルコに領地を割譲。それがネウムです。ちなみに、このスポンザ宮殿は地震で壊れなかった数少ない建物。
②1991~1995年の内戦… ユーゴスラビア連邦からの独立宣言で、連邦軍と内戦に。2000発の砲弾が降り注ぎ、7割近くの建物が全半壊。ユネスコやボランティアの協力を得ながら、崩壊前と同じ石材で、美しかった町のままに修復された。